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ビジネスサロン報告

2015年07月20日

ビジネスサロン第3回

7月13日に、ビジネスサロン第3回が開催されました。
内容を抜粋ましたのでご覧ください。

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長谷川正之: 大正時代の中学教師・三澤勝衛が唱えた「風土産業」とは

<三澤勝衛に学ぶ風土産業論>
県立諏訪中学(現・諏訪清陵高校)教師:教え子に新田次郎など。地理学、天文学、物理学などを中心に、寺田寅彦の論文を援用するなど独自の授業をおこなう。

三澤勝衛著作集全4巻(農文協2009年)
『地域個性と地域力の探求』『地域からの教育創造』『風土産業』『暮らしと景観』
風土とは、「大地の表面と大気の底面との接触からなる一大化合体」である。大地と大気は化合し、さまざまな風土が生じる。風土を知り尽くすことが自然を活用した産業を育成する基礎である。

日照、雨、風、地形、土質、温湿度、日向と日陰、雪……それぞれが互いに影響して微妙な風土が生まれる。まず、その対象をよく見て考えること。土質しか考えないのは視野が狭い「土百姓」。その風土を知るには、風土の表現体である「土壌・植生・動物・人類の生活」に注目する。まずは、純自然物の植生を丁寧に見る。

<風土を生かして産業を興す>
原料や労力は運べても、風土は運べない。与えられた風土の特徴を最大限に利用する。地方産業(風土産業=適地適業)の育成。この地方でなければ、というものを生産するのでなければ、その地方の使命を果たしたとはいえない。

「強み」は風土を生かして作ること(玉井袈裟男・信大名誉教授)  その土地で泣かされているものにこそ生かすべき何かがある
→ 視点を変えて考えよ。

無理をして金や力でいうことを聞かせようとするな → 風土を活用してコストを減らす。

<三澤の「風土産業」は現代の6次産業化につながる>
風土は個性の強いもの。その風土を織り込んで生産したものもまた個性が強い。したがって風土を織り込めば織り込むほど生産物は特色化され、需要化される
→ 市場対応中心の産業は個性を喪失して消滅する

マーケティング的に考えると、どこで付加価値をつけるかが問題となる。三澤的「風土」を生かすことによる差別化(比較優位性)

<長野県産農畜産物の統一ブランド「おいしい信州ふーど(風土)」>
「風土」は三澤の風土産業を意識したもの。長野県の地形と気象は他県と圧倒的に違う。日本の3000メートルを越える山21座のうち、長野県内の山が14座を占める。耕地の80パーセント以上が標高500メートルを超える(全国平均はわずか5パーセント)。 昼夜の寒暖差が大きい。日照時間が長い。降水量が少ない。多様な気候。

<三澤の連環式経営との関係>
風土と密接な交渉を持った生産物を地域で組み合わせる。養蚕製糸業とその補助産業の多重連環。桑、蚕、生糸、織物……だけではなく、蚕の糞(蚕沙)や桑屑を綿羊の餌にする。桑の木の皮や繭屑から製紙を。繭から石鹸や化学薬品を。これだけの多方面の関係を持つような産業なのに、単純様式にのみ終始し、儲かるからといって麦や大豆の耕地や水田にまで桑を植え込んだのは大間違いである。

<三澤の風土産業から学ぶ次世代産業とは>
幅広い補助産業の多重連環を実現して、その地方の風土性を基礎として立脚した次世代産業を創出する。地域活性化の志を同じくする異業種経営者が、ネットワークを組んで6次産業化をめざす。

 

福田育弘: 日本産のワインが美味しくなりだしたわけ

<日本ワインが1990年代以降、急速に品質向上したのはなぜか?>
1980年代から、ワイン専用品種(ヴィニフェラ)による垣根仕立てに転換、食中酒としてのワイン(「食卓ワイン」)を造るようになった。フランスをはじめとした良質のワインがたくさん輸入され、本来のワインを味わいだした消費者の、「食卓ワイン」志向。 1975(昭和50)年は重要な転換点。果実酒(食卓ワイン)の製成量が甘味果実酒を抜く。

<1970年代以前・以後>
農産物の輸入が自由化されず、ワインに高い関税がかかっていた1970年代以前は、日本には外国のよいワインはあまり入っていなかった。1970年代以降、フランスをはじめとした良質のワインが広まりだす。さらに1960年代の海外渡航の自由化で、ヨーロッパのワイン産国で質のよいデイリーワインにふれる人も増加。それらを20代30代で飲んだ世代が、1990年以降(さらに厳密にいえば2000年以降)、30代40代となって、日本のワインの品質向上の担い手に。

<日本のワイン産国としての世界に類例を見ない独自性とは?> 新大陸のワインは、もともとワイン文化をもっていたり、多かれ少なかれワイン飲用習慣を身につけていたりしたヨーロッパ人が持ち込んだ(自分たちが飲むためにつくった)。

日本の場合は、明治の殖産興業の一環として導入された。外国から教師も雇わず、見よう見まねで、ワインを飲んだことがない人がワインをつくった。
目的は、荒蕪地の利用、失職した士族の雇用のため。また、日本酒の消費をワインに振り替え、米を節約して輸出に回そうとした。明治初年は凶作で外国から米を輸入。江戸時代にもたびたび飢饉の際に日本酒醸造禁止令が出た。主食の米をほぼ唯一のアルコールである清酒(日本酒)として飲用する日本の根本的矛盾。これを解決し、輸入品を減らし、外貨を獲得しようとした。

<ワインの受容>
ただし、受容なき生産。消費なき製造先行。「生葡萄酒」は「すっぱくて渋い」と売れず。未熟な技術(清酒の醸造技術を応用)で作ったことも一因。販路も考えなかった。

明治20年代以降、日本人の嗜好に合わせて、甘口の、ワインをベースにした甘口果実酒が主流となる。最初のヒット商品は、明治17(1884)「蜂印香竄(はちじるしこうざん)葡萄酒」(滋養強壮の薬用飲料として薬屋で販売=「養命酒」と同じようなもの)不朽の名作:壽屋(現サントリー)の創業者・鳥井信治郎による「赤玉ポートワイン」(1907)。明治20年代(1987-97)から、ワインは食事とは別に「おやつ的」(お菓子的)に飲む口当たりのよい甘味の健康アルコールドリンクに。(苦くても受け容れられ、本格的な生産が早くからおこなわれたビールとは対照的)

明治20(1887)年から30年(1897)にいたる10年間は、殖産興業政策の落とし子である本格ワインが、甘味ブドウ酒の内部へ包み込まれていく過程であった。」
――麻井宇介『日本のワイン・誕生と揺籃時代 本邦葡萄酒産業史論攷』日本経済評論社1992より

麻井宇介は醸造技術者としてスタートしたが、ワイン製造に当たってはブドウ栽培の重要性をしきりに強調。専用品種を垣根仕立てにして密植することを主張した。それまで、日本のワインは技術者がつくってきた。質の悪いブドウを技術でいかによい酒にするかが技術者のプライドだった。

<よいワインを作るには、よいワインをたくさん飲まなくてはならない>
本格ワインをたくさん味わった世代が、良質の食卓用日本ワインを作り出した。そしていま、それらを消費し、評価する世代が育ち、ワイン造りはブドウ栽培からはじめるのが常識となった。

【次回ワインサロンのお知らせ10月5日】
長谷川正之:上小地域が歩んだシルクの道、新たに歩むワインの道
福田育弘:食事がワインを変える
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