Column[ 読みもの ]

玉村豊男 新連載コラム『ワインのある食卓』

2015年07月13日

第1章  習うより慣れろ(その2) ―― 学生食堂で飲むワインの小瓶

1968年9月12日。私が最初にパリの土を踏んだ日です。大学4年の秋、奨学金を得てフランスに留学することになり、パンアメリカン航空の南回り便で羽田を発ち、約30時間をかけて、パリのオルリー空港に着きました。世界一といわれたパンアメリカン航空が破綻して潰れるとは考えられもしなかった時代、まだ成田空港もシャルル・ド・ゴール空港もなかった時代です。

それまで私は、ワインというものはほとんど飲んだことがありませんでした。ひょっとしたら、誰かの結婚式の披露宴で、ビールや日本酒とともにワインのグラスが目の前に出たことがあったかもしれませんが、飲んだ記憶はありません。パリ到着の約1ヶ月後に23歳の誕生日を迎える若者でしたから、その頃友だちと飲んでいたのは、日本酒か安いウィスキー、当時流行っていたカクテル(「コンパ」というチェーン店がありました)くらいだったと思います。

いちおう仏文科の学生でしたから、ワインがフランス人の生活に欠かせないものであるという知識は持っていましたが……そういえば、当時のフランス文学の先生方は、学生にワインを飲ませることはなかったのだろうか。残念ながら、これも記憶にありません。まだ、先生方も日常にワインを飲めるような環境になかったのでしょう。

フランスには、水より安いワインがある。そう、教えられていたことはよく覚えています。それで、パリに着くと、早速、スーパーのワイン売場に行って確かめました。よく探したら、ありましたね。棚に並んでいるワインボトルにはどれもミネラルウォーターよりも高い値段がついていましたが、隅のほうに、白くて四角いペコペコのプラスチック容器に入った赤ワインがあって、それがミネラルウォーターよりわずかに安かった。早速買って飲みましたが、渋くて薄くて酸っぱくて……でも、それがワインとしてマズイのかウマイのかフツーなのか、判定する基準すら持ち合わせていませんでした。

フランスでは、どこにでもワインを飲む風景がありました。カフェへ行けば朝から男たちがカウンターに寄りかかってワイングラスを傾けているし、パリ大学の学生食堂でも、セルフサービスのトレイに料理を取って載せ、最後の会計のところへ行くと、レジの横にワインの小瓶が置いてある。キャップ式の栓がついたクオーターボトル。飛行機の機内サービスで出てくるような187.50ccの小瓶です。それをトレイに載せて会計を済ませ、昼からワインを飲む学生たちもたくさんいました。

パリ大学というのは、いくつかの学部が市内に散在していて、学生食堂は何箇所にもあります。学生たちはその中から好きな食堂を選んで(食堂ごとに少しずつメニューが違う)昼食を摂るのですが、たしか、あの頃は1食3.75フラン(250円くらい)だったと思います。国から補助金が出ているので、学生は安く食べられるのです。一般人も学生食堂で食べることはできますが、その場合は5倍くらいの値段を払う必要があったように記憶しています。

学生食堂のワインがいくらだったか、これもはっきり覚えていませんが、せいぜい数十円ではなかったかと思います。毎日細かく小遣い帖をつけて生活費を節約していた私がほぼ毎日飲んでいたのですから、それほどの額ではなかったはず。いや、酒飲みは酒代だけはケチらない……とすれば証拠にはなりませんが、とにかく私は、学生食堂のワインの小瓶から、「ワインは毎日飲むものである」というフランス人の常識を学びはじめたのでした。