Column[ 読みもの ]

玉村豊男 新連載コラム『ワインのある食卓』

2015年09月11日

第2章 食卓の上の光景(8)――― 労働者の酒

トラックの運転手や道路工事の労働者が、フラッとカフェに立ち寄って一杯のワインをひっかける……。最近のパリでは見かけることの少なくなった光景ですが、私が学生として暮らしていた頃は、どの界隈のカフェに行っても朝からそんな客の姿が見られたものです。「アン・ヴェール・ド・ルージュ!」カフェに入ってくるなり、カウンターの中にいる顔なじみの主人に会釈をしながら、そう声をかけます。グラス(ヴェール)一杯の赤(ルージュ)をくれ。主人は客の目の前にグラスを置き、手許にある赤ワインのボトルからワインを注ぎます。トクトクトク……ほとんどグラスの縁いっぱいまで、たっぷり注ぐ。運転手や労働者の客は、こぼれそうになるまで注いでくれるのを見て、満足そうな表情です。

「アン・ヴェール・ド・ルージュ」(グラス一杯の赤ワイン)、「アン・プチ・ルージュ」(小さなグラス一杯の赤ワイン)」、あるいは、「アン・バロン・ド・ルージュ」(丸いグラス一杯の赤ワイン)……言い方はいろいろありますが、要するに、赤ワインをいちばん安い日常用のワイングラスに注いだもののことです。赤ワイン、と注文するだけですから、何が出てくるかはわかりません。その店の定番の、いちばん安い赤ワイン。パリなら名もないボルドーの安酒か、ボージョレかコート・デュ・ローヌあたりの2級品でしょうか。

グラスは上のほうが少しすぼんでいるものの、背は高くなく、容量も小さいので、縁までなみなみと注いでもそれほどの量はありません。ただ、グラス一杯120cc とか 140cc とか、メニューに容量を明記している店もあり、また、そうした営業用のグラスには所定の容量のところに線が入っているものもあるので、量をケチればすぐにわかるようになっています。縁すれすれまで注ぐのは、日本酒を注ぐときコップから溢れて下の受け皿に溜まるくらい注いで「サービスをしていますよ」というメッセージを送るのと同じです。

ワインを飲むときはグラスを選びなさい、と日本では教えますが、それは高級ワインの場合です。高級ワインは大きなグラスに3分の1か4分の1くらいしか注がないものですが、それはグラスの内部に香りを満たすため。グラスの曲線が上に行くにしたがってすぼまっているのは、中に充満した香りがまっすぐ立ちのぼり、鼻先をグラスの上にもっていくとよく香りがわかるから……といわれていますが、それは高級なレストランで高級なワインを飲む場合で、パリのカフェに集まる労働者には縁がありません。

カフェにはいってきて「赤を一杯」注文した労働者は、出てきたワインをクイっと引っかけるとカウンターの上の小皿に小銭をチャリンと置き、主人やギャルソンに「ボンヌ・ジュルネ!」(よい一日を!)と声をかけて、颯爽と出て行きます。まだ仕事の途中ですから、大きなグラスに入れたワインの香りを楽しんで……だなんて、悠長なことはやっていられません。だいいち、背の高いボルドータイプの大型高級グラスに縁までいっぱいワインを注いだら、ワインボトルがほとんど1本、700cc くらいはラクに入ってしまうことをご存知でしたか?

朝は急いでいる労働者ですが、夕方、仕事を終えてカフェに入ってきた彼らは、少しゆっくりワインを楽しみます。が、そのときも大きなグラスではなく、小さな日常のグラスを前にして、おしゃべりをしながら時間を潰すのです。カウンターの端に出っ張ったお腹を擦り付けるようにして毎日カフェにやってくる連中のことを、「腹にカウンターの胼胝(たこ)ができている」とフランス人は親しみを込めて呼んでいます。