Column[ 読みもの ]

玉村豊男 新連載コラム『ワインのある食卓』

2015年09月14日

第2章 食卓の上の光景(9)――― シャトー・ラトゥールにて

フランスに留学してから今日まで47年間、ほとんど毎日のように安いワインを飲み続けてきた私ですが、たまには高級ワインに出会うこともあります。高いワインは自分では買わないので、プレゼントでいただくか、レストランでご馳走してもらうか、たいていはそのどちらかです。

ワインの愛好家というと、何万円も何十万円もするワインをあたりまえのように飲んでいたり、もっと高いワインをコレクションしていたり、フランスのシャトーに招かれて特別のワインを振舞われたり、そんな話をする方が多いのですが、自慢じゃないけど、私にはそういう経験はいっさいありません。ひたすら日常の飲みものとしてワインを飲み続け、ソムリエ試験に出るような知識にはいっさい関心がなく、ワインの評価はただ「自分がそれを好きか嫌いか」だけ、でも「ワインの愛好家」であることは間違いない。そういう人は、フランスには多そうですが、日本では案外珍しいかもしれません。

そんな私ですが、一度だけ、ボルドーの「シャトー・ラトゥール」を訪ねたことがあります。雑誌の取材でスタッフといっしょに行ったのですが、偶然、その日はプリムールの試飲会がおこなわれる日の前日でした。プリムール(走り、初物)というのはまだ樽の中に入っている熟成途中のワインのことで、ボルドーのシャトーでは、この段階から売りに出す先物取引がおこなわれます。試飲会の日には、輸入業者やホテル・レストラン関係などのバイヤーが、世界中から集まります。彼らは樽の中から汲み出した熟成途中の赤ワインをテイスティングして、買い付けるか買い付けないか、買うならどのくらい買うか、などを決めるのです。

秋に仕込んだ赤ワインは、1年から1年半は寝かせるのがふつうです。テイスティングがおこなわれるのは春の復活祭の前ですから、樽に入ってからまだ半年くらいしか経っていない。私たちもほんの少しだけ飲ませてもらいましたが、なんというか、口に入れると強烈なタンニンが舌の上いっぱいに広がり、重くて硬い、ワインというよりまるで鉄の塊りのように感じられました。プロのバイヤーたちは、それを舌の上で転がしながら、約2年半後に顧客の手に渡る頃にはどんな素晴らしいワインになっているか、 時とともに花開くワインの一生を予測するのです。

この試飲会の数週間後にシャトーから発表されるのがプリムールの「ファースト価格」。この時点で買うのがいちばん安い。夏を過ぎるともっと高い「セカンド価格」が発表され、その後もさらに価格は改定されます。そして翌年に瓶詰めされる頃には、「ファースト価格」の何倍もの値段になっている、というわけです。つまり、プリムール試飲会の時点で正しい判断を下せば値上がりの期待できる有利な商品を安い価格で抑えることができ、判断を誤ると、後に評判になって値上がりした高い商品をつかむことになる……という、投資の対象としてのワイン取り引きの世界なのです。

大きなイベントの前日だったにもかかわらず、広報担当の女性は親切に案内してくれたうえ、近くにある村の食堂のようなところで昼食をご馳走してくれました。本日の定食に、ラトゥールの赤ワイン。もちろんセカンドラインの「レ・フォール・ド・ラトゥール」でしたが、面白かったのは、前菜はサラダで、メインディッシュは肉が2人で魚が2人。それでもメニューにかまわず同じ赤ワインを4人で飲んだことです。シャトー・ラトゥールといえば赤ワインと決まっているので、サラダだろうと魚だろうと、なにを食べるのも赤ワインしか飲まないのです。

高価なワインに慣れない私は、プリムールを巡る別世界のワインビジネスの現場を垣間見て驚きましたが、そのすぐ近くの食堂で、メニューは別々でもかまわず同じワインを飲むという、いかにもフランス人らしい日常的なワインの飲みかたを見て、なんだかホッとしたことを覚えています。