Column[ 読みもの ]

『千曲川ワインバレー』MAKING & BACKGROUND

2014年09月23日

『千曲川ワインバレー』MAKING & BACKGROUND ②

2014年09月23日

ワインバレーはどこにある?

昨年(2013年)のある日、『千曲川ワインバレー』を読んだ山梨県のワイン協会の人から電話があり、「千曲川ワインバレーっていうのは、どこにあるんですか」と訊かれました。いや、どこにあるかといわれても……もちろん将来は千曲川も、リバーサイドにブドウ畑がえんえんと連なる……ライン河のような風景になることを願ってはいますが、日本一長い川の流域は広大で、どこへ行けばワインバレーの全貌が見えるという特定の場所があるわけではありません。

ですから、当面はヴィラデストの丘の上から千曲川の流れを遠望して、いまワイナリーのあるだいたいの場所を指差すくらいのことしかできないのですが、それでも山梨県のワイナリーの人たちは、東御市から長野市にかけての一帯を見物に来るといって、その電話のあと実際に視察にやってきました。

日本一のワイン先進地である山梨県も、最近耳にするようになった「千曲川ワインバレー」という名前が気になっているのでしょうか。そうだとすれば、大先輩から存在を認めてもらっただけでもうれしいことです。
「千曲川ワインバレー」という言葉は、2012年の正月くらいから地元の新聞(信濃毎日新聞)などで使われるようになり、その後少しずつ認知度が高まって、いまでは長野県の「信州ワインバレー構想」の一翼をになう地域名としても知られるようになりましたが、この言葉が生まれてきた元をたどれば、話はもう10年以上も前に遡ります。

TaKaRa酒生活文化研究所

私は、1995年から7年間、宝酒造の「TaKaRa酒生活文化研究所」というところの所長をつとめていました。この研究所は宝酒造が設立した民間のシンクタンクのようなもので、お酒と、お酒をめぐるさまざまな生活や文化にまつわる事象を研究する非営利組織です。組織の立ち上げと同時に私が所長就任を要請されたのですが、その初めての打ち合わせのために宝酒造の役員諸氏と会いに行く日が、作家の山口瞳さんが亡くなった日(1995年8月30日)の翌日であったことを、いまでもよく覚えています。会合は東京でおこなわれたのですが、小諸駅から信越本線に乗って(まだ新幹線はありませんでした)東京に着くと、キオスクに並ぶすべての新聞が大きな見出しで「山口瞳さん逝去」を伝えていた、その風景が印象的でした。

山口瞳さんは『江分利満氏の優雅な生活』で直木賞を受賞した作家で、『男性自身』などエッセイの名手としても知られていますが、もともとは開高健、坂根進、柳原良平らの諸氏とともにサントリー宣伝部から広告会社「サンアド」を興して斬新な広告で時代をリードする活動に貢献した、当時の「サントリー文化」を支えるメンバーのひとりでもありました。その方の死去の翌日が「TaKaRa酒生活文化研究所」のスタートの日と重なるということは、かつてサントリーが果たした「酒生活文化」を顕彰する役割を、これからは宝酒造が引き継ぐことになるのか……と、その偶然の符合に感慨を催したのでした。

この研究所では、国立民族博物館の先生方などお酒の研究者によるセミナーや勉強会をおこなうほか、各界の文化人を招いての懇談や講演会など、お酒の効用にまつわるあらゆる話題を取り上げてPRする幅広い活動をおこないました。研究所は7年間で活動を終えましたが、その成果は叢書「酒文ライブラリー」(*1)を中心に20冊以上の書籍として刊行されています。

ワイナリーのトライアングル

「千曲川ワインバレー」という言葉も、最初はこの研究所のメンバーの間で語られたものでした。

研究所は、宝酒造が得意とする焼酎や日本酒だけでなく、あらゆる酒類を研究の対象としていたので、当然のことながらワインも話題に上ります。当時は何回目かの「ワインブーム」といわれた時期がそろそろ終わりに差しかかる頃でしたが、これからの酒類の消費動向を予測する中で、農業としてのワインづくりがかならず脚光を浴びる時代が来る、と私が論議の中で繰り返し強調していたことがじわじわと影響したのか、それならひとつ、宝酒造もワイン市場に参入しようか……という機運が、しだいに盛り上がってきたのです。

そして、最初はワインの輸入からはじめるが、宝酒造はあくまでもメーカーだから、自社畑でワインぶどうを栽培してそれを醸造するワイナリーをつくろう、ということになり、それなら日照時間が長く雨の少ない東御市(当時は東部町)(*2)が最適だ、といって、私が担当役員を当時の東部町長に紹介することにしたのです。

候補地は、「御堂(みどう)」という地域です。ここは市の北東に位置する丘陵地帯で、バブル期には何度もゴルフ場の候補地として名前が上がったり、テーマパークや植物公園を誘致する話があったりした、遊休荒廃農地が数十ヘクタールの単位で集積しているところです。たまたまその少し前に、私は町長からこの土地の利用法について相談を受けていたので、それなら、と思ってヴィンヤードの候補地に推薦しました。

例のスケジュールノートを紐解くと、1998年の8月2日に私が町長と会って宝酒造の計画を伝え、9月24日に宝酒造の担当部長を「御堂」に案内し、10月27日に担当部長を町長に引き合わせています。その頃から研究所は、メルシャン社を退職した浅井昭吾(筆名・麻井宇介)氏(*3)を顧問に迎え、ヴィンヤード整備とワイナリー建設の計画を進める態勢を整えました。

ほぼ同じ頃、メルシャン社も千曲川の対岸でワインぶどうを栽培するための土地を探している、という情報が伝わってきました。そこで私は宝酒造の役員や研究所のメンバーたちと、「小諸にはマンズワインがあるから、もし丸子にメルシャンのワイナリーができれば、うちと合わせて、千曲川を挟んでトライアングルができることになる。そのうちきっと周辺にワイナリーがいっぱい増えて、カリフォルニアのナパバレーとまでは行かなくても、ちょっとしたワインバレーができるんじゃないか。そうしたら、千曲川を下りながら温泉とワインをゆっくり楽しむ旅ができるだろう。日本にも、そろそろそんなリゾートができてもいいよね」と、ワインを飲みながら話し合っていたのです。

これが「千曲川ワインバレー」構想の原型、というわけですが、あれから16年、宝酒造のワイナリー建設計画はもろもろの理由で頓挫したものの、丸子にはメルシャン社の農場(マリコヴィンヤード)ができ、東御市では現在の3社のほかにあと2社がワイナリーを建設中で、この調子だと、かつては夢物語のように語られていた「ワインバレー」が、いよいよ本当に実現しそうになってきました。

註(*1)酒文ライブラリー
浜美枝『旅のおみやげ』、吉永みち子『斗酒空拳』、麻井宇介『酒・戦後・青春』などのほか、研究所編として『アベセデス・マトリクス』、『酒がSAKIと呼ばれる日』、『燗酒ルネサンス』、『下戸の酒癖』、玉村豊男の著作としては『モバイル日記』、『回転スシ世界一周』などが刊行されている。

註(*2)東御市
いわゆる「平成の大合併」により、千曲川をはさむ東部町と北御牧村が合併して人口約3万人の東御市が2004年に誕生した。東部の「東」と御牧の「御」を合わせて「とうみ」と読む。

註(*3)麻井宇介
1930年東京生まれ。卓越した酒造コンサルタントとして世界で活躍するかたわら、名文の誉れ高い著作を数多くものしている。『比較ワイン文化考』のほか、『ワインづくりの思想―-銘醸地神話を超えて』などで日本におけるワインづくりの大きな可能性を示唆し、数多くの若い醸造家たちに影響を与えた。2002年6月、71歳で没。