Column[ 読みもの ]

『千曲川ワインバレー』MAKING & BACKGROUND

2014年10月07日

『千曲川ワインバレー』MAKING & BACKGROUND ③

2014年10月07日

時の必然……

宝酒造のワイナリー建設計画は、1998年秋からの3年間にわたる地元住民や行政担当者との交渉の末、20ヘクタールの農地を所有する約100軒の農家のほとんどから賃借契約への同意を取り付け、農園予定地へのアクセス道路の整備にも着手するなど、ようやくお膳立てが揃ってあとはサインをするだけ……という最後の段階に至って、宝酒造のほうから計画中止の結論が伝えられました。

当時は株式会社の農業への参入にはいまよりも高い障壁があって、農地の取得にしても農業生産施設の建設にしても、行政が現実に柔軟に対応して協力しなければなにも実現できない時代でした(この点はいまでもあまり変わりませんが)。

その意味で、当時の行政関係者の多くはそもそも一般企業の農業への参入に対して懐疑的であった上、県も市もまだワイン振興による経済的な活性化についての理解がほとんどありませんでした。そのために、段階を踏んで手続きを進める作業にあまりにも時間がかかった、ということはできるかもしれません。

そうこうしているうちに、もともと宝酒造の内部でも賛否両論があったワイン事業への進出について、缶チューハイの市場競争の激化や日本酒の売れ行き低迷など本業をめぐる環境の変化もあって反対派の意見のほうが強くなり、バイオ事業への本格的進出を決めると同時に、ワイナリー建設は白紙に戻す、というのがトップの決断のようでした。いまにしてみれば、もっと事を迅速に進めていればすんなり決定していたのではないか……という思いもありますが、こればかりは誰に責任があるともいえない「時の必然」と考えるしかないでしょう。

麻井先生の指導

しかし、農地の賃借交渉や補助金の申請そのほか行政の諸手続きに時間を費や す間にも、私たちは新設ワイナリーのための準備を着々と進めていました。

まず、日本最高の酒造コンサルタントである麻井宇介氏がメルシャン社を退職したことを知るとすぐさま「TaKaRa酒生活文化研究所」の顧問として招聘し、宝酒造の本社と研究所から選んだ優秀な技師たちに栽培醸造の指導をしてもらうことにしました。私はそのために狭かった自分の農園のブドウ畑の面積を拡大して、そこで栽培の実地指導ができるような環境をととのえました。

新しいワイナリーではどんなワインをつくるべきか、日本のワインの今後の方向性についても麻井先生を中心に議論を重ね、ブランディングやマーケティングについても検討を進めました。千曲川の流れを見下ろす丘の上に建つ、斬新なデザインの新工場の設計図もできあがってきました。

御堂地区の20ヘクタールの開墾に着手する前に、まずは隣接する2ヘクタールあまりの農地を実験圃場とすることに決めて地権者から借り受け、そこに植える約2万本の苗木を早々と発注しました。

麻井先生による栽培の指導は、ヴィラデストのブドウ畑を利用しておこなわれました。宝酒造から派遣された技術者のうち、最後に残ったのはそれまで本社の研究所で日本酒の技師をしていた小西 超(とおる)で、彼は毎週のように滋賀県の自宅から東御市まで通ってきて、麻井先生の直々の指導を受けたのです。

麻井先生はその頃すでに70歳に近い年齢でしたが、小西と待ち合わせるなりすぐに畑に行って、暗くなるまで熱心に作業をしたものです。それに、ブドウは雨が嫌いなのに、麻井先生は超の字がつくほどの雨男で、指導の日にはかならずといっていいほど雨が降りました。それもたいがいはひどい土砂降りで、先生、少し家の中でお休みになってはいかがですか、と誘っても、いやいや、このまま畑に行きますから、と、止めるのを振り切って、雨合羽姿で小西といっしょに畑に出ていったことをよく覚えています。

麻井先生の指導を受けるようになってから、収穫したヴィラデストのブドウはサンクゼールワイナリー(*1)で醸造させてもらうことになりました。それまでは自家用ワインとして最寄りのマンズワイン小諸工場に醸造をお願いしていたのですが、宝酒造とマンズワイン(キッコーマン)では大手同士でバッティングするからという理由で、マンズワインの同意を得て委託醸造先を変更したのです。

それから3年間、小西は麻井先生についてマンツーマンで醸造の指導を受けました。日本でもかならずよいワインができる、といって若い醸造家を叱咤激励した麻井宇介を慕う者は多く、その中には「麻井チルドレン」とか「宇介ボーイズ」とか呼ばれる人たちもいますが、ヴィラデストの小西こそ、最後の最後まで麻井先生とともにブドウとワインを前にする時間を共有した、「最後の弟子」といってよい存在だろうと思います。

計画が中止になって

すべてが、御堂でのヴィンヤード開発とワイナリー建設を前提に動いていました。しかし、宝酒造の本社からはなかなかゴーサインが出ません。そのうちに注文した実験圃場用の苗木が大量に届き、植えるところがないのでサンクゼールの農場に借り植えをして凌ぐことにしました。が、借り植えした苗木も1年以上が経過すると生長が進んで、もうこれ以上は待てない、という限界が近づいてきます。2001年の6月にワイナリー建設計画の中止が確定したのは、ちょうどそんなタイミングだったのです。

麻井先生は、2001年に病を得て、2002年の6月1日に亡くなりました。若い醸造家とともに新しいワイナリーを立ち上げるのは、麻井先生にとっても人生最後の夢……だったのかもしれません。もちろん因果関係はわかりませんが、計画の中止が大きな落胆とストレスを与えたことは想像に難くありません。

本社による方針の決定を受けて、ワイナリー計画を当初から推進してきた拠点である「TaKaRa酒生活文化研究所」そのものも、2002年末を以って消滅することになりました。研究所で私たちといっしょに計画に携わってきた宝酒造の担当部長だった人は、2002年の末頃から体調に変化を来たし、入院すると間もなく病態が急変して、2003年5月にまだ50代の若さで亡くなりました。

私自身も2001年の9月には極度のアレルギー発作と急性の胃潰瘍による大量出血で緊急入院、集中治療室に担ぎ込まれる騒ぎをおこしており、いまこうしてあらためて書き並べてみると、2001年から2002年にかけてが、あらゆる意味で大きな転換点だったことがわかります。

よみがえるプロジェクト

しかし、そのようにしてあえなく潰えてしまったかに見えた東御市のワイン・プロジェクトが、あれから十数年が過ぎたいま、もっと大きなスケールで実現しようとしているのです。

宝酒造の撤退を受けて、私が身代わりのように個人で立ち上げたヴィラデストワイナリーは、いうまでもなく大企業が考えていた新工場とはくらべものにならないくらい小さなものですが、いまでは次々に後を追う者が増えて、東御市を中心とした「千曲川ワインバレー」には小規模ワイナリーが集積して新しい産地を形成しようとしています。

宝酒造の計画で「実験圃場」とされた2ヘクタールの農地は、なんとかしてこの土地でワインぶどうを栽培したいという地権者の思いを受けて、2010年に設立された「リュー・ド・ヴァン」(*2)の最初のヴィンヤードとなりました。

そして、当時宝酒造のためにとりまとめられた御堂地区の農地は、いまでは当時よりもさらに樹木が密集した森林になっていますが、今年から長野県の県営事業として荒廃地再生の対象となり、3~4年後には30ヘクタールのヴィンヤードとなって新規就農希望者の利用に供される予定です。

こうして、いったん死んだように見えたプロジェクトが、まったく新しい姿に生まれ変わることになりました。

「小諸にはマンズワインがあるから、もし丸子にメルシャンのワイナリーができれば、うちと合わせて、千曲川を挟んでトライアングルができることになる。そのうちきっと周辺にワイナリーがいっぱい増えて、カリフォルニアのナパバレーとまでは行かなくても、ちょっとしたワインバレーができるんじゃないか。そうしたら、千曲川を下りながら温泉とワインをゆっくり楽しむ旅ができるだろう。日本にも、そろそろそんなリゾートができてもいいよね」

そう、ワインを飲みながら話し合っていた当時のメンバーからは何人かが欠けてしまいましたが、そのときに種を撒かれた「千曲川ワインバレー」の構想が、長い眠りを破っていま動き出そうとしているのです。

註(*1) サンクゼール・ワイナリー
長野県飯綱町にある1999年創業のワイナリー。斑尾高原でのペンション経営とジャムづくりからスタートした久世良三夫妻が一代で築き上げた北信のワイン王国は、長野県におけるインディーズ(独立系)ワイナリーの雄としてさらなる発展を遂げようとしている。

註(*2) リュー・ド・ヴァン
醸造家の小山英明が東御市祢津地区に設立したワイナリー。ワイン特区要件の小規模ワイナリーから、現在は着実に規模を広げている。