Column[ 読みもの ]

『玉さんの信州ワインバレー構想レポート』(KURA連載)

2016年05月25日

玉さんの信州ワインバレー構想レポート(23)

<歴史と伝統が支える塩尻ワインの底力>

水に乏しく、痩せていて、なにを栽培してもうまくできない不毛の土地とされてきた桔梗ヶ原に、明治20年代から植栽されて根づいたのは、コンコード、そしてナイアガラというアメリカ系のブドウ品種です。低温に耐え、収量も多く栽培が比較的容易なアメリカ系品種(ラブルスカ種)は、明治末期から「赤玉ポートワイン」などの甘味果実酒が人気を得ると、その原料用ブドウとして大量に生産されました。塩尻は、メルローが知られるようになるずっと以前から、ナイアガラとコンコード(地元の人は親しみを込めて「ナイヤコンコ」と呼ぶ)の日本一の産地であり、いまも依然としてそうあり続けています。

「昔の塩尻の人は、一升瓶を抱えて湯呑みでワインを飲んだものです」
S・N・K(塩尻市農業協同組合)桔梗ヶ原ワイナリーの、唐沢義信さんから話を聞きました。
「昭和30年代の中頃までは農家が勝手にブドウ酒を仕込んで飲んでいましたが、税務署の手入れが入って、それで生産者組合が共同醸造所をつくったのが最初です。一時よりは減りましたがいまでもナイヤコンコを栽培する組合員は200名ほどいて、毎年40キロリットル程度のワインをつくっています。720mlで1000円、一升瓶だと1600円ですが、全体の3割は生産者還元といって、農家が安く引き取って飲めるシステムになっています」

ナイアガラやコンコードなどのラブルスカ種は、ワインにすると「キツネ臭」と呼ばれる独特の香りがあり、欧米のワイン愛好家からは嫌われます。もともとワイン文化をもたない国がワインを飲みはじめるとき、最初のうちは栽培が容易なラブルスカ種からつくる甘味果実酒が初心者用の入門編として好まれるのが一般的ですが、慣れるにしたがってしだいに甘くない本格ワインへと嗜好が変わっていきます。日本もその例外ではなく、赤玉ポートワインによってワインに入門した日本人は、昭和50年頃から本格ワインへと移行するようになりました。それとともに消費者からはヴィニフェラ種(メルローやシャルドネなどの欧州系品種)のワインが求められ、ナイアガラやコンコードの生産量は漸減の一途をたどることになりました。

「でも、私は、ワインの入口として、なくしてはいけないと思うんです。甘くて飲みやすいナイアガラやコンコードを最初に口にすることで、多くの人にワインに親しんでもらえるのですから」
農協が直営する全国で唯一のワイナリーとして、組合員の付託に応えるとともに、塩尻のワインの歴史を後世に伝えたい。一升瓶から湯呑みにワインを注ぎ、野沢菜を肴に晩酌する農家の原風景を忘れないために……。志学館高校を出てから30年、農家のブドウでワインをつくってきた唐沢さんの姿勢にブレはありません。私はその確信に満ちた口調に、日本ワインの歴史を支えてきた塩尻の底力をあらためて感じるのでした。

赤玉ポートワインは、明治40(1907)年、サントリーの前身である寿屋から発売され、その後は赤玉スイートワインと改名されていまも健在です。
「塩尻工場は、山梨の登美の丘ワイナリーと同じ年にできました。1936年の創業の頃に建てられた古いケラー(樽貯蔵庫)も残っています。赤玉出荷組合のコンテナもありますよ」
サントリー塩尻ワイナリーの篠田健太郎所長が案内してくれたのは、戦前からのワイン蔵と、2年前に建てられた新しい醸造所。もともとの工場は赤玉ポートワインの原料をつくるために建てられたので、大量の処理を可能にする大型の機材しかなかったのを、小さなロットで仕込めるように小型の最新設備に替えたのです。いま人気の「ジャパンプレミアム」シリーズのような、産地別、品種別に少量ずつ仕込む日本ワインに力を入れはじめたからです。

サントリーは一時、日本でのワイン生産から(自社農園をもつ「登美の丘」を除いて)撤退し、海外での生産に注力する、と伝えられました。が、最近の日本ワインの躍進に歩調を合わせ、立科町に15ヘクタールの農地を確保するなど、いま本格的に国内生産の態勢をととのえています。小規模の個人ワイナリーが勢いよく増えようとしている長野県に、技術も経験も抜きん出たサントリーのような大手ワイナリーが参入してくることは、NAGANO WINEの品質と評価の向上におおいに寄与するに違いありません。

サントリーと双璧をなす大手メーカーであるメルシャンも、塩尻に新たな圃場をつくろうとしています。メルシャンはすでに上田市丸子(椀子)に20ヘクタールのマリコヴィンヤードをもっていますが、それに加えて、松本市との境に近い片丘という土地に約9ヘクタールの農地を用意して、今年から一部で植栽をはじめます。
「20箇所以上の候補地を見たのですが、ここには特別のオーラがあって、まさしく理想の土地だと思いました」

素晴らしい眺めの、標高800メートルの高台に立って説明してくれたのは、片丘のプロジェクトのためにボルドーから呼び戻された、栽培醸造家の勝野泰朗さん。フランスに5年滞在してふたつの国家認定資格を取った、次代の切り札ともいえる人材を当面は畑の整備に専念させるというのですから、メルシャンの力の入れようがわかります。
「信州は住みやすくて環境がよいので、私はここに骨を埋めるつもりです。本当は、この畑を見下ろす場所にワイナリーができるといいんですけど……」

メルシャンは、長野県内に醸造所をもっていません。その昔ナイヤコンコのワインを大量につくっていた大黒葡萄酒の時代から残る遺構はあるものの、すでに免許は返上してしまいました。が、原産地の表示等が義務づけられる趨勢の中では、いつまでも長野県で収穫したブドウを山梨県まで運んで醸造するわけにもいかないでしょうから、いずれは長野県内にワイナリーをつくらなければならなくなります。そのときに、古い工場を改造してつくるのか、新しいワイナリーを片丘に建てるのか、椀子に建てるのか。
「片丘にも椀子にも新しいワイナリーをつくることを、技術者はみんな望んでいます」
と勝野さんは言う。醸造は畑の傍らで、という世界のワインづくりの原則からいけば、当然ふたつのワイナリーを新設するのが、トップメーカーの取るべき道だと思います。

畑の用地を歩いた後、明治・大正につくられた巨大な木樽が並ぶ大黒葡萄酒時代の旧工場を見せてもらいましたが、ここは、まさか壊すわけにはいかないでしょう。博物館として日本ワイン史に残る貴重な遺品を展示し、その一角にワインの飲めるバーカウンターを設えたら、塩尻の一大観光名所になることは間違いありません。

ワインバレー23