Column[ 読みもの ]

『玉さんの信州ワインバレー構想レポート』(KURA連載)

2015年07月02日

玉さんの信州ワインバレー構想レポート②

ワインづくりの古い歴史

日本のワイン産地、というとき、おおかたの人が思い浮かべるのは山梨県でしょう。山梨県は日本で最初にワインをつくった県であり、明治初期から現在に至るまで、ブドウの生産量でもワイナリーの数でも全国をリードしてきました。その意味では、近年そのワインが評判を高めている長野県は後発の新興勢力なのですが、その長野県の中で、例外的に古い歴史をもっているのが塩尻地区です。

日本で最初のワインは明治七年に甲府でつくられたとされていますが、実は長野県でも同じ頃に政府から西洋品種のブドウの苗木が配布され、ワインづくりが試みられるようになりました。明治政府は西洋事情を研究し、ワインの生産が日本の将来をになう産業のひとつになるのではないかと考え、各地でブドウ栽培を奨励したのです。そのときに全国から選ばれたのが、冷涼で乾燥した気候をもつ北海道と山梨県、そして松本から塩尻にかけての中信地域でした。長野県のワイン生産はその後も塩尻を中心におこなわれてきましたし、日本で初めて欧州系ワイン専用品種の栽培に成功したのも塩尻の桔梗ヶ原で、その歴史が今日の名声につながっているのです。

しかし、メルローやシャルドネなど、高級ワインを生む欧州系の専用品種(ヴィティス・ヴィニフェラ)は、いまでこそ長野県産ワインの代名詞のようになっていますが、前回述べた通り、標高700メートルを超える桔梗ヶ原では、導入はしたものの気候が寒過ぎて育たない状態が何年も続いたのでした。それに対して、ナイアガラやコンコードなどのアメリカ系の品種は、寒さにも耐え、雨にも強く病気になりにくいうえ、収穫量も多いという、栽培者にとっては願ってもない品種でした。明治時代から栽培がはじまったこれらの品種は、今日まで塩尻を代表するブドウ品種としてつくられ続けています。

ワイン用ブドウ品種の謎

ブドウという植物が地球上にあらわれたのは一億年以上も前のことだといわれますが、その後の幾多の気候変動を経て、現在残っているのは欧州ブドウ種群、米国ブドウ種群、東アジア野生ブドウ種群、という三つのグループに大別されます。

そのうち米国ブドウには「ヴィティス・ラブルスカ」など約三十種があり、東アジア野生ブドウも日本のヤマブドウを含めて約四十種あるとされますが、欧州ブドウ種群には「ヴィティス・ヴィニフェラ」という一種類しかありません。一千万年ほど前の地球はいまよりもはるかに温暖で、地上には幾多の植物が繁茂しており、ブドウの仲間も夥しい数が存在していたのですが、その後にやってきた氷河期に多くの品種が絶滅してしまったのです。とくにヨーロッパでは、地域によってそれぞれ性質は異なるものの基本的には同一品種と見なされる「ヴィティス・ヴィニフェラ」しか残らなかった、というのが定説となっています。

氷河期を生き延びた欧州ブドウの原産地は、中央アジアのカスピ海と黒海のあいだ、旧約聖書でノアの方舟が漂着したとされるアララット山の麓あたりではないかといわれていて、この地から東と西へ伝播したと考えられています。そして東へ伝わったブドウは、シルクロードのトルファンあたりではいまもそうであるように、生食用として利用され干しブドウとして保存されることになりましたが、西へ伝わったブドウは、地中海沿岸地域を中心にワインのかたちで飲用し、保存することになったのです。

潰して放っておけばそのままでも酒になるブドウの果実は、ワインにして保存するのがもっとも簡単な方法です。が、東アジアの高温多湿の気候では管理が難しかったのか、日本にまで伝わったヴィニフェラ種である「甲州」も、長いこと生食用にしか利用されてきませんでした。それに対して、「ワインはキリストの血」といって重要視した宗教的な後押しもあって、ヨーロッパではそれ以来今日まで、栽培するブドウのほとんどすべてがワイン用に使われているのです。

ヴィニフェラ種しか飲まない人たち

ワインの文化がヨーロッパで生まれたため、ワインに関する基本はすべてヨーロッパの価値観で決められます。だから、「ヴィティス・ヴィニフェラ」以外のブドウでつくったワインは認めない、というのが彼らのスタンスであり、好みでもあるのです。実際、アメリカ系のブドウでつくったワインは「キツネ臭がする」といって、フランス人やイタリア人は匂いを嗅いだだけで端から飲もうとしません。ヤマブドウなどの野生種系もほぼ同様です。

これは果たして欧州人の偏見なのか、それとも人類共通の嗜好に関わる部分がどこかにあるのか、なんとも判定のしようがありませんが、フランスでワインを飲む習慣を身につけた私は、やはりアメリカ系やヤマブドウ系のワインは、あまり飲みたくありません。私だけでなく、世界中の(アメリカもアジアも含めて)ワイン愛好家は、ヴィニフェラ種のワインしか飲まない、といっても過言ではないので、だから、アメリカを含めて、いま世界中のワインをつくっている国ではヴィニフェラ種でしかワインをつくらないのです。

アメリカでもオーストラリアでもニュージーランドでも、それまでワインを飲む文化がなかった国では、例外なくアメリカ系ブドウないしは野生種系の栽培から着手します。そのほうが病気になりにくく、栽培が簡単だからです。それを薄くて甘い、初心者が飲みやすいワインに仕立てて売り出す、というのが、どこの国の場合でもワイン産業の草創期に共通して見られる現象です。が、しばらくしてワインを飲む習慣が浸透してくると、そんな初心者向きには飽き足らなくなり、しだいにヴィニフェラ種のワインを求めるようになる……というのが、少なくともこれまでの世界のワイン新興国がほとんど例外なくたどってきた道筋なのです。

先進地・塩尻が立つ未来への岐路

日本でも、明治初年の本格ワインが受け容れられなかったので、その後「蜂ブドー酒」や「赤玉ポートワイン」がつくられました。こうした誰にでも飲みやすい、少量のワインに砂糖や香料などを加えてつくる「甘味葡萄酒」が人びとの嗜好を喚起して、しだいに日本人はワインという飲みものに馴染んでいき、とうとう一九七〇年代の半ばには、それらの消費量を本格ワインの消費量が追い越すに至ったのです。

それ以来、四十年。日本のワインはまだ発展の途上です。その過程で塩尻の桔梗ヶ原は世界に通用するヴィニフェラ種のワインを産するようになったわけですが、一方で、歴史の残滓ともいえるアメリカ系ブドウ(ナイアガラやコンコード)の栽培もまだ大規模におこなわれています。嗜好には習慣が影響するので、古くから地元に伝わるワインを愛する人がたくさんいるのは当然ですが、もし過去の歴史が未来にも通用するとすれば、これらはいずれ消えていく運命にある……といってよいと思います。

その歴史の必然(?)を、現代の技術で変えて世界を驚かすコンコードワインをつくることができるのか、それとも、それを受け容れてアメリカ系ブドウの栽培を漸次縮小してヴィニフェラに変えていく方向をめざすのか、いずれにせよ結論が出るまでは何十年というスパンが必要ですが、先進地「桔梗ヶ原ワインバレー」が、いま重大な歴史の分かれ道に立っていることだけは間違いがないようです。

KURA②1 KURA②2

2014年4月からはじまった塩尻市主宰の「塩尻ワイン大学」では、将来的に塩尻地区での就農をめざす受講生を対象に、毎月1回(週末1泊2日)で4年間、自立までに必要な栽培醸造経営の知識と実技を教える

                           (KURA 2014年8月号)