Column[ 読みもの ]

『玉さんの信州ワインバレー構想レポート』(KURA連載)

2015年08月12日

玉さんの信州ワインバレー構想レポート⑧

りんごの里のワイナリー

見事な枝ぶりのりんごの樹が連なる丘を上って行くと、ましのワイナリーの建物が見えてきます。ここを訪ねるのは十数年ぶりで、そのときに見たガレージのような醸造所といまの建物がどう関係するのかよくわかりませんでしたが、周囲をりんごの樹に囲まれたたたずまいは昔のままでした。

ましのワイナリー(信州ましのワイン)は、りんご農家が集まってつくった農事組合法人が前身です。1988(昭和63)年からジュースの加工をはじめたが、ちょうどその頃アメリカからの果汁の輸入が自由化されて、りんごジュースは価格の下落が予想された。そこで、その土地でつくらなければ意味がないものはなにかと考え、ワインづくりに挑戦することを決めたのだそうです。株式会社化して社長になった宮沢さんが、カベルネ・ソーヴィニョンなど欧州系品種をこの地域で最初に栽培したこともあり、1991(平成3)年に醸造免許を取ってワイナリーとしてスタートしました。

しかし、松川町はりんごの名産地。宮沢さんが手がけた欧州系のワインぶどうは病気にやられるばかりで栽培がうまくいかず、結局はりんごに頼ることになりました。いまでもブドウは数多くの品種を育てていますが、生産量はジュースが7でワインは3、それもりんごのワインが半分近くを占めています。

「でも、りんごの町ならりんごの町らしく、りんごのワインを究めるのもひとつの手ではないだろうか」宮沢さんとスタッフは、あの3月11日の震災の日、フランクフルトの「世界りんごワイン祭り」に参加していました。世界では、ブドウが育たない寒冷な気候の地域で、りんごからつくるシードル(発泡性)やアップルワイン(スティルワイン)が飲まれています。ヨーロッパでいえばバスクやブルターニュ、ドイツ、オーストリア、イギリスといったところがりんご酒の文化地帯。とりわけドイツにはどぶろくから蒸留酒に至るりんご酒の完結した世界があって、宮沢さんは、フランクフルトで出会った大樽からピッチャーで飲む「りんごワイン」の楽しさに目を開かれました。長いあいだ、「地ワインとはなにか?」という問いに、明快な答えを与えてくれたように感じたからです。「もちろん欧州系のブドウはこれからもしっかり挑戦していきますが、一方で、この地域にはりんご酒の文化があってもいいのではないか、と考えたのです」

宮沢さんは、南アルプスが見える丘の上に、公園をつくりたいと考えています。そこにみんなで集まって、ブドウやりんごのワインを飲みながら、楽しい時間が過ごせたらどんなに素敵だろう。いまはまだ二頭のヤギがいるだけの小さな緑地ですが、そこに立った宮沢さんは、見渡す限りの果樹の林を指差しながら、夢と歴史を語ってくれました。

このあたりは、もともとは戦後に満蒙開拓団が引き揚げて住んだところだそうです。水がないからコメができない土地で、最初は養蚕のための桑の木を植えました。養蚕が終わると、次は梨に転換し、松川町はかつて一世を風靡した「二十世紀」梨の大産地として全国にその名を知られました。そして、梨の時代が終わると、フジを中心とするりんごの町へ。いまは、少しずつ市田柿の木が増えているといいます。来年で施政100年を迎える松川町は、すぐ近くにリニアの駅ができる頃、どんな農業を営んでいるのでしょうか。

診療所がワイナリーに変身した

天竜川ワインバレーにできた三つ目のワイナリーは、駒ヶ根から高遠に向かう国道沿いにある「伊那ワイン工房」。長年「ましのワイナリー」で醸造を担当していた村田純さんが独立して構えたワイナリーです。

「そろそろ自分のワイナリーをつくりたいと思って物件を探していたとき、たまたま国道を走っていたらこの建物が目に入って、いっぺんで気に入りました」という建物は、古くから地元で親しまれてきた診療所。先生が引退してからもう十年くらい経ち、手入れもしないまま放置されてきた三階建ての建物は、まるで幽霊屋敷のようになっていたらしいが、村田さんはそれが、「ワイナリーに見えた」といいます。なるほど、ふつうの人にはどう見ても診療所にしか見えないと思うのですが、自分のワイナリーのイメージを頭に描きながら建物を探していた村田さんには閃くものがあったのでしょう。「玄関だけはあまりにも診療所なので少し変えましたが、ほかのところはまだ修理も改造もしていません。夫婦で三階の院長室に住んで、ガレージでワインをつくっています」

建物を買って機械を入れ、免許を取ったのが醸造開始ギリギリのタイミング。ましのワイン方式のプラスチック桶で発酵させるやりかただから、天井が低くてもガレージは発酵熟成庫としてそのまま使えたのですが、除梗破砕機やプレス機その他の設備を収めるには診療所の裏庭にプレハブ仕様の醸造棟をつくらなければなりませんでした。だからとても住環境まで整えている時間はなかったようですが、診察待合室で私たちの質問に答える村田さんは、「やっぱり、うれしいですね。ようやく自分のワイナリーが持てたんだ、と思うと」といいながら、口許が思わず緩んでいます。

「伊那市が信州大学と連携して特産にしようとしているヤマブドウを使ったワインがひとつの売りものですが、市内で欧州系のブドウを栽培している人がいるので、これからは高級品種のプレミアムワインもどんどんつくっていきたいですね。伊那谷は気温も雨量もワインぶどうの栽培に適しているので、将来は有望だと思います」

伊那谷もまたシルクからワインへ

長年ワインづくりに携わってきた村田さんがこの地に本拠を構えることによって、周辺のブドウ農家の意識も変わり、ワインづくりへの理解も深まって、しだいに環境が整っていくことでしょう。かつては町の人の誰もがお世話になった診療所に、地元でできたワインを試飲に来る町の人たちが増えていけば、伊那谷にワイン文化が根づく日もそう遠くないはずです。また、ひとつ、ここにもNAGANO WINE の拠点ができた……という思いを噛みしめながら、私たちは「天竜川ワインバレー」の訪問を終え帰途につきました。

伊那谷は日本の近代化を支えた養蚕業の中心のひとつであり、信州のシルク産業に多大な貢献を果たした地域です。養蚕の知識と歴史については駒ヶ根のシルクミュージアムに行けばその全貌を知ることができますが、いまから約五十年前に近代工業に席を譲って姿を消した養蚕製糸業に代わって、これからは桑園の跡をブドウ畑にしてワインをつくる……「シルクからワインへ」という信州ワインバレー構想のキーワードが、ここにもまたピタリとあてはまるようです。「天竜川ワインバレー」は、まだ生まれたばかりですが、信州の他の地域のどこにもない、多様で独特な奥深い魅力をもっていることは間違いがありません。

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みんなが楽しめる場所をつくりたいという宮沢さん。漬物のようにワインを仕込むのがスタイル。

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発酵と熟成はガレージで。

KURA⑧4

どう見ても診療所だが、ワイナリー。

 

 

 

 

 

ましのワイナリーからそのスタイルを受け継いで独立した、村田さんの本拠は古い診療所だ。

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こだわったプレス機。

 
(KURA 2015年2月号)