Column[ 読みもの ]

日本のワインのこれからを考える 2019

2017年01月31日

限界集落

昔、といってもまだ30年は経っていませんが、私たち夫婦が住む土地を探していたとき、山の中に入ると、あちこちに廃村がありました。私たちが毎週のようにドライブして土地を見ていたのは小諸から東御、佐久(望月)、上田(青木村)あたりがおもな地域ですが、眺めのよいところに住みたいと思っていたので標高の高い山の上ばかり走っていました。下のほうにある集落から里山に向かう道を上り、途中でクルマを止めて振り返っては見える風景をたしかめ、そろそろこのあたりがよさそうだ……と思ってそのまわりを少し歩いてみると、森の中に、朽ち果てた家が数軒、廃墟のように隠れているのです。

きっと、私たちと同じように、眺めがよいからここに住もう、と思ったのでしょうか、いくつかの家族が集まって、この土地を開拓しようと考えて住みはじめたに違いありません。主のいない家の建物は、アンコールワットほどではないけれど、樹木と雑草に侵食されています。昔の畑の跡が見当たらないのは、とっくに森林化しているからでしょう。何年ほど耐えたのかはわかりませんが、あきらめて撤退した集落の跡。それがどこの山だったか、はっきりした記憶はありませんが、そんな場所を複数目撃しました。どこも、そこを過ぎてもっと上のほうにのぼっていくとほどなく山のてっぺんに到達するような場所ですから、本当に日本人は国土のいたるところを棲み処にしてきたのだと、あらためて感動したことを覚えています。

森を切り拓いて畑をつくり、川から水を引いて暮らす。鶏や豚を飼い、森の恵みを生かせば、十分に生きていくことはできたはずです。そうして子供が生まれ、家族が増えていけば、移り住む仲間も多くなって、ひとつの村ができたのではないでしょうか。が、結局そうなることはなく、撤退せざるを得なかった。彼らは、山の奥にまで人間のテリトリーを広げようとして、森の樹木と動物たちとの闘いに負けたのかもしれません。

私たちがいま住んでいる東御市の田沢とその上に続く一帯は、いまでこそヴィラデスト、ドメーヌ・ナカジマ、アルカンヴィーニュという3つのワイナリーを持ち、ゴルフ場(浅間高原カントリー倶楽部)や宿泊施設(大田区休養村)もある開けた地域ですが、明治以前からの古い歴史をもっており、もともとは開拓者たちがつくった村でした。おそらく最初に入植した開拓者たちは森を切り拓きながら沢に沿って田をつくっていったのでしょう。田沢という名の集落が日本各地に多いのは、そんなふうにして全国で住むとことろを開拓していった事情を偲ばせます。

試行錯誤を繰り返し、奥に入り過ぎては撤退を余儀なくされ、ぎりぎりのところで踏ん張って集落を維持し……うまくいったところだけがいまに残っているわけですが、そんなふうにして人間のテリトリーを広げることで江戸時代に4000万人未満だった日本の人口が1億2000万人を超えるまでに増えたことを考えると、これから人口が1億人から8000万人、さらには6000万人へと減少した場合、山際を開拓してつくった集落が再び消滅するのは当然とも言えるでしょう。

日本よりほんの少し小さいだけのドイツの人口が8000万人強、日本の1.8倍の面積をもつフランスの人口が約6500万人であることを考えると、いまより都会への人口集中が緩和されて地方が生き返り、現在の「限界集落」の多くが消滅して「コンパクトシティー」化が進む一方、地理的条件に恵まれた地域は「田園山岳リゾート」としての利用価値を高めていく……という動きの中で7000~8000万人あたりで着地するのが、日本の人口の望ましい行方でしょうか。

翻って我が田沢地区を眺めた場合、もちろんこれだけの基盤を築いた地区がそうやすやすと消滅することは考えられませんが、高齢化は着実に進んでいます。すでに、連れ合いを亡くしてひとり暮らしになったお年寄りの家、残された配偶者も亡くなり誰も住まなくなった家など、空き家または空き家寸前の家が少しずつ増えてきました。いま古い家を守っているのは今年70歳くらいになる団塊の世代で、その子息の多くは地区の外に出て帰ってきませんから、20年もすれば大半の家は空き家になって、集落に「限界」が訪れるのは火を見るより明らかです。

田沢の住民である私としては、ワインぶどうをつくりたいといって集まってくる人たちに、後継者のいない農地を使えるようにしてあげて、空き家を活用して住んでもらうことにより、わずかずつでも新旧の住民が交代していくことを願っています。もちろん、もともとの住民の子孫たちが戻ってきて古い家を継いでくれるのなら大歓迎ですが、そうでなければ移住者に入ってもらうことになるでしょう。でも、移住者といってもワインぶどうの栽培を志す人たちは50年も80年も生きるブドウの樹の傍らで、世代を継いでワインをつくっていく覚悟を決めている人たちばかりですから、時間をかけて少しずつ交代が進んでいくなら、村の歴史や伝統も(時代に応じて多少かたちを変えていくにせよ)それなりに受け継がれていくことになると思います。