Column[ 読みもの ]

玉村豊男 新連載コラム『ワインのある食卓』

2015年07月20日

第1章  習うより慣れろ(3) ―― ライオン広場 

あれは、パリに着いてから何日目のことだったか、おそらくまだ1週間も経っていない頃だったと思います。留学生仲間と、パリ14区ダンフェール・ロシュロー広場の角にあるカフェで待ち合わせました。近くに大学の事務所があり、留学生はパリ大学の学生としての登録をそこでおこないます。私はサンケイスカラシップという奨学金をもらって留学したので、いっしょに合格した仲間と語らって、それぞれに登録を済ませた後そのカフェに集まることにしたのです。

ダンフェール・ロシュロー広場は、広場の中央に、自由の女神像をつくった彫刻家バルトルディの手になる 大きなライオン像があることで有名です。角のカフェからも、その像がよく見えました。私たち男子4人は、これからはじまるフランスでの学生生活を祝して、白ワインで乾杯をすることにしました。9月なかばのパリは明るい光と乾いた風が爽やかで、よく冷えた白ワインはすいすいと喉を通っていきます。

この話は、私が最初に「ワインの洗礼を受けた日」として何度か原稿に書いたことがあるのですが、いくら思い出そうとしてもその細部が思い出せません。もう半世紀近くも前のことだから忘れるのは当たり前、というより、そもそも、飲みはじめてから1時間もしないうちに全員の記憶がすでに失われていた……ということではないかと思います。覚えているのは、乾杯をしたときの高揚した気分と、最初の数杯を飲みながら感じたカフェのテラスで過ごす時間の素晴らしい快適さ、そして、ギャルソンが運んできたワインのラベルに<MUSCADET>という文字が書いてあったことだけです。

もちろん、誰もワインについてはまったく知識がなく、まともなワインを飲むのもほとんど初めての体験だったわけですから、私たちが銘柄を指定したのではないと思います。喉が渇いていたので、よく冷えた白ワインを、それも、あまり高くないやつを、くらいはオーダーしたかもしれません。いちおう試験を通ってきているので、そのくらいのフランス語はできました。ギャルソンは、それならミュスカデあたりが無難だろう、と判断したのではないでしょうか。

ロワール河の下流、ナントの近くでつくられるミュスカデは、すっきりとした辛口の白ワイン。魚介類にもよく合いますが、夏の夕刻などに喉を潤すには最適の、比較的安価なワインです。あまりおいしいので、1本はあっという間に飲み干し、2本目、3本目……と追加注文を重ねました。が、その後は……何本注文して何本飲んだのか、まったく記憶がないのです。

その後のことで覚えているのは、翌朝の朝日が昇るころ、ダンフェール・ロシュロー広場の片隅で、警官に頭を小突かれて目を覚ましたときのことでした。4人とも、意識を失って倒れていたのです。カフェを出たあとまた近くで飲んだのか、それとも閉店までそのカフェで飲んでいて追い出されたのか、ひとりとして覚えている者はありませんでした。

警官は、私たちを起すと、こんなところで寝ているんじゃない、もっと隅のほうへ行け、といっただけで、それ以上は咎めませんでした。さすがにフランスの警官は寛大だ……といって私たちは感心しましたが、感心している場合ではありません。酔っ払って意識を失うなど、絶対にやってはいけない社会人失格の行為であること、そして、そもそもワインは酔うためのお酒ではないこと。まだそのときの私たちは、そんな常識も知らない、無知で恥ずかしい若者でした。