Column[ 読みもの ]

玉村豊男 新連載コラム『ワインのある食卓』

2015年07月27日

第1章  習うより慣れろ(5) ―― 酔うためのお酒 

日本酒は、酔うためのお酒です。酔っ払うための、といってもいいでしょう。コメを主食とする国ですから、そのコメから酒をつくるのは大変な贅沢です。だからその酒は日常に飲むためではなく、晴れの日に、お祭りのときに、一年のうちに何度もない特別の機会に飲むものなのです。

丹精を込めて育てたコメが、いよいよ収穫の秋を迎えます。今年はよいコメがたくさん穫れた、これで暮らしは安泰だ。さあ、収穫を祝って酒盛りをやろう。村の長は、収穫したコメの一部を取り分けて、酒を造るように命じます。腕に覚えのある杜氏が、さっそく仕込みにかかります。

お祭りには、近隣の村びとも招待します。昔のことですから、便利な通信手段はありません。足に自慢の若手を遣いに出し、隣村の連中にお触れを伝えます。若者たちは何里かを歩きながら、酒盛りをやるから集まってくれ、そろそろ出かけるとちょうどいい具合だよ、といって誘います。実際、近隣の村からぞろぞろと人が集まってくるまでに、数日か、いや、もっと多くの日数がかかるでしょう。その間に、仕込んだ酒はぶつぶつと発酵が進みます。

だいたいの人数が集まったところで、酒盛りがはじまります。乾し魚か、塩辛か、漬物か、酒の肴はたいしたものがありませんが、たいしたものがなくてもいいのです。なにもなければ、塩だけでもかまいません。コメの酒は、ただそれだけを飲めばよいのです。飲んで、飲んで、酔っ払う。お祝いですから、ご馳走になって酔わないのは失礼です。みんな、ぐでんぐでんになって、収穫したコメの一部で造った酒を全部飲みつくして、祝宴はお開きになります。

私たち日本人には、まだ、こういう時代のDNAが残っているのですね。その証拠に、いまだに酒飲みは、毎日のように飲んでいるのに、夕方になって酒場での約束があると「さあ、今夜は飲めるぞ」とかいって気合いを入れるじゃないですか。「飲みにいこう」とか、「飲み会」という言葉も、食事とは別に、ただ酒を飲むためにだけ出かけていく、日本人の習性と関連しています。フランスには、そういう言葉はありませんから。

日本人は酔っ払いに寛大だといわれます。夜、サラリーマンが駅前の道路を千鳥足で歩いていても、あまり近づきたいとは思いませんが、それだけで咎められることはありません。意識を失って、仲間の肩に担がれて家まで運ばれても、翌日ふつうに出勤すれば、社会人失格といわれることはないでしょう。だから、公衆の面前で酔った状態をさらすことに、歯止めをかける社会もなければ、自制をする意識もないのです。

フランス人が人前で酔った姿を見せないのは、彼らが体質的にアルコールに強い(分解酵素を日本人より多く持っている)というだけではなく、そもそも、ワインは酔うために飲む酒ではないという歴史的な成り立ちと、そこから生まれた社会的な規範によって縛られているから、と考えたほうがよさそうです。

外では決して酔態を見せてはいけないと厳しく律するフランスの社会と、酔っ払うのもご愛嬌と許してしまう寛大な日本の社会。どちらがいいか、住みやすいかは別にして、パリの土を踏んだばかりの学生たちが、早くもオジサンのような醜態を演じてしまったことは、いまでも深く反省しております。