Column[ 読みもの ]

玉村豊男 新連載コラム『ワインのある食卓』

2015年09月18日

第3章 ワインづくりは農家の仕事 ―― (1)暖炉の前で赤ワイン           

私が最初にブドウの樹を植えたのは、1992年の春のことです。いまヴィラデストカフェのテラス席から正面のいちばん奥に見える600坪(2反歩=20アール)の畑に、メルローとシャルドネの苗木を合計500本植えました。

私たち夫婦は、ふたりとも東京生まれの東京育ちです。友人との縁から軽井沢に引っ越し、テニスとお酒と物書きの仕事を楽しみながら暮らしていたのですが、ある日、突然、私が吐血をして病院に担ぎ込まれ、原因もわからないまま輸血を繰り返しているうちにC型肝炎にかかり(当時はC型肝炎ウィルスの検査薬がなく、10人にひとりは「輸血後肝炎」にかかるといわれていた時代でした)、2年間ほど寝たり起きたりの生活をするうちに、そんなことなら後半生は夫婦で畑を耕しながらひっそりと暮らそうと決め、眺めのよい農地を探しはじめたのです。

そして1年半にわたる探索の結果、いまヴィラデストがある土地に出会いました。1991年、私が46歳、妻が40歳のときでした。昔は桑山だったところで、その後は段々畑につくり変えられていましたが、耕作する人は少なく、とくに表土を剥がれた最下段の農地は、放置されたまま背よりも高い雑草が生い繁っていました。私たちが買うことができたのはその痩せ地ですが、面積は1ヘクタール以上(3500坪)もありました。

私がその一部にブドウの樹を植えたのは、土地が広過ぎて余っていたのと、南西に向かって下る里山の緩やかな斜面が、いかにもフランスあたりで見るブドウ畑の風景を連想させたからです。が、フランスの石灰岩からなるアルカリ性の土壌に対し、日本は酸性土壌なので、石巻から牡蠣の殻を取り寄せて、畑に撒くことにしました。当時、三陸海岸には牡蠣の殻がボタ山のように野積みされていたので、それをトラックで30トン以上運びました。

最初の年は、家を建てながら、ふたりで開墾作業に追われました。草を刈り、石を拾い、土を返し……妻は野菜とハーブを植えようとトラクターで畑を耕し、私は土手の斜面に積まれた牡蠣の殻を、ひとりで掻き下ろして畑に撒きました。山の中なのに海の匂いがからだに滲みつく重労働でしたが、汗まみれになって一日中働き、太陽が傾きかける頃、家に戻ってシャワーを浴び、新しいシャツに着替えて夕食のしたくをはじめます。アルプスの山の向こうに落ちていく夕日を眺めながら、まずは良く冷えた白ワインを一杯。これが至福の時でした。

建築途中の家に住みついたので、夏のあいだは野外に設けた臨時の台所で料理をつくっていましたが、秋から冬にかけてようやく家の全体が完成しました。台所は、大きな窓から夕日を眺めながら料理や洗いものができるように、西側につくりました。南側の奥にある居間には、壁一面に石を貼って暖炉を設けました。雪と氷に閉ざされる冬は、その前で長い夜を過ごせるように。

家と畑をつくる過程を、友人の編集者に頼んでカメラマンに撮影してもらい、完成したら雑誌で発表して連載原稿を書く約束をしていました。それが家庭画報に掲載され後に世界文化社から刊行された『田園の快楽』ですが、冬、暖炉の前で私たちがワインを飲んで寛いでいる写真が雑誌に載ると、あちこちから反響がありました。「暖炉の前でワインだなんて、農家のイメージが変わりました」「農民がワインを飲んでもいいんですか?」 叱っているのではなく、好意的な反響です。「あの写真を見て自分たちも農業をやろうと思いました」という人も何人かいました。

農民がワインを飲む。フランスじゃ当たり前でしょう。ワインは農家がつくるものですから。暖炉はちょっと贅沢かもしれませんが、24年前の日本では、そんな感覚がふつうでした。