Column[ 読みもの ]
『千曲川ワインバレー』MAKING & BACKGROUND
2014年09月09日
『千曲川ワインバレー』MAKING & BACKGROUND ①
2014年09月09日
一冊の本ができるまで
2013年3月20日に、私は集英社新書から『千曲川ワインバレー』という本を出しました。
この本を書こうと思ったのは、2012年の春のことでした。まず、内容の梗概と目次案を添えた企画書を出版社に渡し、企画会議に通ったのが6月初旬。それからいろいろな人に会って話を聞いたり、参考文献を読んだりしながら、本の構成を考えはじめました。
私が1982年以来欠かさずつけているスケジュールノートによれば、2012年は9月2日から9日まで1週間パリに滞在していますが、この間に最終的な構想をまとめて前書きと目次を書いた、と記されています。そして10月8日(私の誕生日)から本文の執筆を開始しましたが、他の仕事が立て込んでいたためすぐに中断し、その後11月1日から再び執筆を開始して、9日までに一気に残りの全部を書き終えました。翌日から2日間はヴィラデストのワイナリー祭りなので、それまでに脱稿しようと頑張ったのだと思います。
もちろん原稿は(私は1999年以降はすべて)パソコンで書いていますが、業界の慣習に従って400字詰め原稿用紙に換算すると合計300枚あまり。私は昔から字数と行数を数えてページごとのレイアウトを考えながら本を書くので、書き終わった原稿をそのまま印刷すれば240ページの新書ができあがる……はずなのですが、実は、本を刊行するとなるとこれからが時間がかかるのです。
書いた原稿は、メールで編集者に送ります。すると編集者はそれを読んで、疑問点があればそれらを確認してから「入稿」します。入稿というのは、パソコンのデータであれ、手書きの原稿用紙であれ、著者が書いた文章を出版社と編集者が確認して受け入れ、刊行することを前提として印刷所にまわす、ということです。そして、そのようにして印刷された原稿(ゲラ)を校正のため校正者に渡す、というのが次の段階となります。(*1)
校正というのは、専門の校正者が原稿を精査し、誤字脱字の有無、仮名遣い、表記の統一などの問題点を洗い出すとともに、書かれている文章の内容について事実関係の確認などをする作業のことで、校正者によっては、よくもそんな細かいことまで……といいたくなるほどの、重箱の隅をつつくような指摘を山のように返してきます。
『千曲川ワインバレー』に関しては、編集者の手から11月の終わり頃に校正者に渡ったゲラ刷りが、戻ってきたのは正月明け。それからゲラ直し(校正者の疑問に答えたり文章を推敲したりする作業)をしてそれを戻し(初校戻し)、さらに2度目のチェック(再校)を経て、原稿の最終形が完成したのは2月のなかば過ぎのことでした。それから印刷にかかり……本ができたのは3月の後半。出版社の中にはすべての工程を1ヶ月足らずで終えるところもありますが、きちんとした手順を踏んで本を出す一流出版社の場合は、どうしても3ヵ月くらいはかかるのがふつうです。
あらゆる情報がインターネットで即時に発信される時代、いくら出版はネットみたいな情報の垂れ流しと違う、といっても、本の刊行ももう少しスピーディーになってもよいのではないか……と私は思うのですが、集英社新書では執筆完了から出版まで4ヵ月かかるのが慣わしとなっています。
書いた原稿を一刻でも早く読者に届けたいと願う著者にとって、4ヵ月という時間はいかにも長いのですが、「千曲川ワインバレー」の構想実現へ向けての実際の動きのほうも執筆と並行して進んでいたので、進行状況に応じてゲラを書き直しながら、2月中旬の時点での最新の情報も「あとがき」に盛り込むことができた……という意味では、結果的にはちょうどよいタイミングでの出版になったのかもしれません。
註(*1) ゲラ
入稿して印刷された原稿の紙の束を「校正刷り」といいますが、出版界ではふつうこれを「ゲラ」と呼んでいます。これは、かつて活字で印刷がおこなわれていた時代、原稿の通りに組んだ活字を型枠に入れて印刷機にかけたことから、この浅くて細長い型枠を示す英語の「ギャレーgalley」が訛って「ゲラ」となったといわれています。型枠そのものを意味する言葉から、その型枠の中に並べられた活字によって印刷された紙(校正にまわされる校正紙)を意味するように変化したわけです。「ギャレー」というのは細長く続く列を意味する、奴隷を船の両側に並べてオールを漕がせた古代のガレー(ギャレー)船の構造から来た言葉で、飛行機などの中にある細長い調理室をギャレーと呼ぶのも同じ形状からです。
私が執筆を思い立った理由
ヴィラデストワイナリー(*2)の設立は2003年10月(カフェやショップなどの営業は2004年4月から)ですが、その後、東御市は2008年に「ワイン特区」(*3)を取得し、それを契機に「リュー・ド・ヴァン」と「はすみファーム」というふたつの小規模ワイナリーが市内にできました。
こうした動きに呼応して、とくにこの数年、東御市を中心とする千曲川沿岸の一帯では、この地域に住んでブドウを育て、自分で育てたブドウからワインをつくりたい、という人が、全国からおおぜいやってくるようになりました。
荒廃農地がどんどん増え、農業をやる人が高齢化しているいまの時代、ブドウを栽培したいといってやってくる人がいるならぜひ受け入れたいものだと思いますが、実際には、市役所に相談に行ってもまともに対応してくれないので、そういう人たちの多くが私のところに相談に来るのです。
東御市は巨峰の名産地として有名で、かつては日本一の量と品質を誇っていましたが、栽培農家の高齢化が進んで生産量が落ちています。そのため市ではなんとか巨峰栽培の後継者を確保しようと、里親研修制度や農業者住宅の斡旋など、新規就農希望者を募るための施策を考えてきたのですが、ここ数年、やってくるのはワインぶどうの栽培希望者ばかり。もしそんな人を受け入れて、巨峰の畑をワインぶどうに変えられたら困る……ということで、東御市は(ワイン特区を取得しているにもかかわらず)ワインぶどうを栽培したいといって市役所を訪ねてくる人たちを、実際には「門前払い」してきたのです。そういう状態が、つい2年ほど前まで続いていました。
移住して農業をやりたいという彼ら彼女らに、農地を紹介し、栽培の技術と醸造の知識を授け、将来の独立を支援するためには、行政の協力や民間企業の支援が欠かせません。が、それらがまだ十分でない現在、この人口減少時代に貴重な移住希望者たちを地域に定着させ、彼ら彼女らの夢の実現に手を貸せるようにするために、私たちはなにができるだろうか。
そう考えて、2012年の初め頃から、この地域に小さなワイナリーを増やすための基盤をつくろうと、いろいろな人に話をもちかけてアイデアや協力を求めるようになったのです。
が、「長野県のワインは世界基準なんですよ」とか、「いまは世界中でワインをつくるようになり、ワイナリーの数もどんどん増えているんですよ」とか、会う人にはかならずそんな話をして、なんとか計画を動かそうと試みるのですが、いくら熱心に説明しても、たいていの人がポカンとしているのです。
実際、ワインにはそもそも興味がないとか、日本のワインなんか飲んだこともない、という人もまだまだ多いので、そのたびに私は、日本ワインの歴史から世界のワイン事情、新規就農の実態や日本農業の問題点など、1時間も2時間もかけて説明しなければなりませんでした。
そうこうしているうちに、会う人ごとに同じ話をするのも面倒だから、それなら全部の説明を1冊の本に書いてしまおう、と思うようになりました。
これが、この本の執筆の動機です。これを読んでもらえれば、ワインという飲みもののことも、ワインづくりという農業のことも、ワイナリーが集積することによって実現するライフスタイルについても、ひととおりの知識が得られるような本……内容はそれまで散々話してきたことなので、書きはじめたら原稿は一気に進んだのですが、この本を発端として「日本ワイン農業研究所」ができ、来年からは「千曲川ワインアカデミー」が立ち上がるのかと思うと、私がこれまでに書いた60冊以上の本の中でも、『千曲川ワインバレー』ほど実質的な影響力の強い本はなかった、といってよいかもしれません。
註(*2) ヴィラデストワイナリー
玉村豊男が1992年に東御市ではじめて欧州系ワインぶどう品種を植え、2003年に醸造家の小西超とともに創業したワイナリー。シャルドネの2005年ヴィンテージが洞爺湖サミットの昼餐会に採用され、2007年ヴィンテージが第6回国産ワインコンクールの最高金賞を受賞するなど、「千曲川ワインバレー」東地区が欧州系品種の栽培好適地であることを実証した。
註(*3) ワイン特区
酒税法の定める正規の最低生産量(6000リットル)の3分の1の規模で免許が取れる特別許可区域(構造改革特区)。長野県では東御市に続いて高山村が2011年に特区となり、2013年以降は坂城町、山形村、塩尻市、上田市などが続々と名乗りを上げている。