Column[ 読みもの ]

玉村豊男 新連載コラム『ワインのある食卓』

2015年10月27日

第3章 ワインづくりは農家の仕事 ――(8)棚と垣根 

『私のワイン畑』というのは、1994年の秋に出した本で、ブドウ畑をつくる準備からはじまって苗木の定植、最初のわずかの収穫から試験的にワインをつくるまで、スタートの時期のようすを日記のように綴ったものです。読むと最初の頃の苦労がしのばれますが、あの頃はブドウのこともワインのことも、なにも知らなかったのだなあ、という感慨を抱きます。もちろん、いまでもたいしたことを知っているわけではないのですが、とにかく最初は闇雲のチャレンジでした。

この本では、ブドウの樹を棚に這わせるのではない、あいだを詰めて列になるように植える仕立てかたを、「垣根づくり」ではなく「柱づくり」と書いています。いまは誰もが「垣根づくり(または垣根仕立て)」と呼ぶようになりましたが、あの頃はまだ呼びかたが定まっていなかったのでしょうか。言葉遣いは栽培の専門家にも出版社の校閲部にもチェックしてもらっているので、私だけの無知ではないような気がします

『不可能のワイン』の著者であるジャン=ロベール・ピットは、日本で一般的に普及している棚づくりについても詳しく言及しています。棚づくりによる栽培方法は、古代ローマのプリニウスがすでに知っており、いまでもヨーロッパのごく一部に見られるが、日本には中国から伝えられた、として、伝えたのは医学者の永田徳本であると書いています。

永田徳本は、室町末期から江戸初期にかけて、薬袋を首にかけ薬籠を背に担ぎ、牛にまたがって諸国を歴遊したという伝説の「医聖」で、1630年に118歳で死んだとされています(真偽不詳)。貼り薬の「トクホン」の社名は永田徳本に由来しており、同社のホームページには社名の由来として詳しい記述がありますが、それによると、元和元年(1615年)、徳本先生が103歳のときに、勝沼町の雨宮家で、竹を組み合わせてブドウのための棚をつくった、とされています。山梨では「甲州ブドウ栽培法改良の祖」として知られているそうですが、徳本先生は中国の文献からその知識を得たのでしょうか。

しかしながら、私はヨーロッパのブドウ畑のイメージしか思い浮かばなかったので、当然、フランスでやっているような垣根づくりしか考えませんでした。植える品種も、フランスのワインをつくるための品種(欧州系ワイン専用品種=ヴィニフェラ種)と同じものを育てることしか念頭にありませんでした。が、いまから20数年前といえば、マンズワインが小諸市の圃場でヴィニフェラ種の栽培に挑戦してようやく手ごたえを感じはじめた時期だそうで、もっと標高の高い土地でシャルドネやメルローをつくろうとした人はいなかったのです。東御市は巨峰の名産地としては知られていましたが、ワイン専用品種を植えたのは私がはじめてでした。

最初に植えた苗木は、500本のうちの3分の2がメルローで、残りは全部シャルドネにしようと思ったけれども奨められて3列だけピノ・ノワールを植えた、と書きましたが、本当は、白ワイン用の品種はシャルドネでなく、あの、留学して最初に洗礼を受けた、ミュスカデのワインをつくる品種(ムロン・ド・ブルゴーニュ)にしたかったのです。もちろんライオン広場の思い出もありますが、ブルターニュ地方でできるミュスカデの品種は寒さに強いからです。寒過ぎてメルローが実らなくても、ミュスカデならなんとかできるだろう、と思ったからですが、マンズワインの技師からは、「玉村さん、そんな安ワインの苗木なんか売っていませんよ」と一蹴されてしまいました。

その結果、いまではシャルドネがヴィラデストの旗艦ワインとなっているのですから、選択は正解だったといえますが、いまでもミュスカデ(ムロン・ド・ブルゴーュ)はつくってみたい品種のひとつです。